2016年03月04日
3月4日 釣りの本
釣りに関しては、目下越冬中。
越冬は4月末まで続くだろう。
越冬中なので、図書館で借りる本は主に電子機器や電子回路の本。
しかし、越冬しているからといって釣り師の本性(nature,ナチュール,ネイチュア)が消え去っ
ているわけではない。
図書館で本棚を眺めているときも、海、海岸、島、釣り、船、風、嵐という文字や書名が目に
入ると、反射的にその本を手に取る。
釣り師の本性が無意識にそうさせるのだ。
私の所作を観察している人がいるとしたらどう見るだろうか。

つい先日、図書館で、『嵐』(ル・クレジオ著)という本の題名が目に入り、瞬間的にその本を手
に取った。
Tempête はフランス語で嵐。
テンペストはベートーベンのピアノソナタで誰しも知っている。
本の題名は『嵐』、「嵐」と「私は誰?」との2篇構成。
「嵐」の中をぱらぱらとめくると、釣りの場面に出くわした。
「外国人だ。最初は港で出会ったのだが、そのときキョウさんは防波堤で釣りをしていた。
釣り道具は一式そろえてあった。プロはだしの道具立てだった。グラスファイバーの竿、
最新のリール。ありとあらゆる釣り針を入れた赤いプラスティック製の容器。釣り糸。
.....」。
(ジューンが声をかけた)
「釣り道具が全部そろっていますね。お上手なんですか」。
J.M.G. Le Clézio, Tempête – Deux novellas,2014
中地義和訳『嵐』(作品社 2015),p.32
こうした場面は、釣りをしている人ならよく出くわす場面である。
これに惹かれ読み始めた。
一挙に読んでしまったと思う。
『嵐』は訳本で5~134頁とそう長くはない。
釣りの本だと思って読み始めたのだがだんだん重苦しくなってきた。
重苦しさがあるのだが、島、海、海女、そして場面が韓国の小さな島ということもあって読
み進めることができた。
その昔、韓国の江原道を2度ほど訪れたことがある。
もちろん仕事が中心であった。
冬のソナタのロケ地である。
インチョン空港からカンゴンドウに車で行く道すがら、浜で釣りをする人の姿が私の目
に強く焼き付いた。
今も思い出す。
江原道は湖が美しい静かな山あいの地方だった。
ソウルから釜山までセマウル号の鉄道旅をしたこともある。
チェジュ島(済州島)に行く機会は逸したが。
この小説の舞台は韓国の小さな島である。
懐かしさもあって読み進めた。
主人公のキョウ、そしてジューンと母親は、辛い過去を持ち、辛い過去から逃れるため、
あるいはそれを確認するために島にやってきて、いろいろな体験をし、やがてそれを乗り
越え、あるいはそれと決別し、新たな人生へと旅だって行く。
キョウとジューンの2重の語りで織りなされる構成に引き込まれ、重苦しさを感じつつ読
みすすめ、最後にはすがすがしさを覚えた。
読み終わっての感想は、内容が重い、普通の作家の本ではない、ということだった。
どういう作家かなと調べて、経歴を見てびっくり。
ノーベル文学賞作家ではないですか。
道理で内容が重いはずだ。
知らなかった。
専門外ではあるが恥ずかしい。
ということで、『隔離の島』、『飢えのリトルネロ』という本も借りてきた。
『隔離の島』はフランス語の原題が「40」。
「40」が「隔離の島」と訳されているので、島、病気、40日間の隔離を連想。
どこの島かなとみるとモーリシャス島。
釣りに行きたいねということで分厚い本だが借りる気になった。
どの本も「私は誰、私は何者」かを問う重い内容。
でもなぜかまた読み返したくなるのは不思議だ。
かっこよくいえば、釣り師も、内容の次元が違うが、「釣りとは何、何のために釣りをするのか」
という重い問いかけを背負っているのだ。
越冬は4月末まで続くだろう。
越冬中なので、図書館で借りる本は主に電子機器や電子回路の本。
しかし、越冬しているからといって釣り師の本性(nature,ナチュール,ネイチュア)が消え去っ
ているわけではない。
図書館で本棚を眺めているときも、海、海岸、島、釣り、船、風、嵐という文字や書名が目に
入ると、反射的にその本を手に取る。
釣り師の本性が無意識にそうさせるのだ。
私の所作を観察している人がいるとしたらどう見るだろうか。
つい先日、図書館で、『嵐』(ル・クレジオ著)という本の題名が目に入り、瞬間的にその本を手
に取った。
Tempête はフランス語で嵐。
テンペストはベートーベンのピアノソナタで誰しも知っている。
本の題名は『嵐』、「嵐」と「私は誰?」との2篇構成。
「嵐」の中をぱらぱらとめくると、釣りの場面に出くわした。
「外国人だ。最初は港で出会ったのだが、そのときキョウさんは防波堤で釣りをしていた。
釣り道具は一式そろえてあった。プロはだしの道具立てだった。グラスファイバーの竿、
最新のリール。ありとあらゆる釣り針を入れた赤いプラスティック製の容器。釣り糸。
.....」。
(ジューンが声をかけた)
「釣り道具が全部そろっていますね。お上手なんですか」。
J.M.G. Le Clézio, Tempête – Deux novellas,2014
中地義和訳『嵐』(作品社 2015),p.32
こうした場面は、釣りをしている人ならよく出くわす場面である。
これに惹かれ読み始めた。
一挙に読んでしまったと思う。
『嵐』は訳本で5~134頁とそう長くはない。
釣りの本だと思って読み始めたのだがだんだん重苦しくなってきた。
重苦しさがあるのだが、島、海、海女、そして場面が韓国の小さな島ということもあって読
み進めることができた。
その昔、韓国の江原道を2度ほど訪れたことがある。
もちろん仕事が中心であった。
冬のソナタのロケ地である。
インチョン空港からカンゴンドウに車で行く道すがら、浜で釣りをする人の姿が私の目
に強く焼き付いた。
今も思い出す。
江原道は湖が美しい静かな山あいの地方だった。
ソウルから釜山までセマウル号の鉄道旅をしたこともある。
チェジュ島(済州島)に行く機会は逸したが。
この小説の舞台は韓国の小さな島である。
懐かしさもあって読み進めた。
主人公のキョウ、そしてジューンと母親は、辛い過去を持ち、辛い過去から逃れるため、
あるいはそれを確認するために島にやってきて、いろいろな体験をし、やがてそれを乗り
越え、あるいはそれと決別し、新たな人生へと旅だって行く。
キョウとジューンの2重の語りで織りなされる構成に引き込まれ、重苦しさを感じつつ読
みすすめ、最後にはすがすがしさを覚えた。
読み終わっての感想は、内容が重い、普通の作家の本ではない、ということだった。
どういう作家かなと調べて、経歴を見てびっくり。
ノーベル文学賞作家ではないですか。
道理で内容が重いはずだ。
知らなかった。
専門外ではあるが恥ずかしい。
ということで、『隔離の島』、『飢えのリトルネロ』という本も借りてきた。
『隔離の島』はフランス語の原題が「40」。
「40」が「隔離の島」と訳されているので、島、病気、40日間の隔離を連想。
どこの島かなとみるとモーリシャス島。
釣りに行きたいねということで分厚い本だが借りる気になった。
どの本も「私は誰、私は何者」かを問う重い内容。
でもなぜかまた読み返したくなるのは不思議だ。
かっこよくいえば、釣り師も、内容の次元が違うが、「釣りとは何、何のために釣りをするのか」
という重い問いかけを背負っているのだ。